いつもこの瞬間はちょっと緊張するっすね。
白波百合は今度担当する大腿骨頚部骨折の患者様の病室前に立つ。
担当になった患者様へご挨拶をする。
臨床にいるならば何度となく経験する瞬間であるけれど、やっぱり慣れないものっすよねと一度大きく息を吐いた。
回復期病棟で挨拶をするのと、この一般病棟で受傷直後に挨拶する瞬間はなんだか違うような気がする。
その多くが今まさに人生の分岐点に立った方であり、少なくとも希望的な感傷を抱いている方は多くはない。
それもそのはずだ。これからどうなるのかなんて、確定的な将来など分からないのだから。
医師による今後の治療方針が説明される。そしてその手術に伴うリスクもまたその時に説明される。何事も絶対は無いからこそ、術後の合併症に関しても説明は必要だ。不安を抱く結果になったとしても。
さて行くっすか。
白波百合は病室に一歩踏み込み担当する患者様の名前を呼ぶ。
「西村綾子(にしむら あやこ)様。いらっしゃいますか。」
はぃ・・・と力ない声がカーテン越しに聞こえ、失礼しますと一言声をかけ、白波は病室へと足を踏み入れる。
そこには、左足へと牽引をかけられ整復中の女性がいた。歳の頃は50歳代であろうか。若くは無いけどこの病棟ではとても若い患者様と言える。長く色がわずかに抜けた茶色の髪は長く、一つに纏められたまま体の横で力なく流れている。細身の体で少し痩せており、目鼻立ちはしっかりしているからちょっとした美人さんっすね。と白波は思う。こんなに若いのにと白波は心配させ無いように柔らかな窓の外を眺める西村を眺める。
「今度リハビリの担当になりました。白波百合と言います。よろしくお願いします。」
丁寧に頭を下げると西村はあっそう。と素っ気なく答えた。
「あと3日後に手術の予定っすから、今日から術前のリハビリを始めさせて頂くっす。」
その言葉を聞いて西村は眉を潜めて白波を見る。その表情の奥には驚きもあるだろう。誰だって手術が終わって、痛みが引いてからリハビリを行うのだと思うのは仕方が無い。だけども現在の医療では重大な合併症を招くリスクのある介入方法だ。それは許されない。西村は口を開く。
「ねぇ。骨が折れてるんだけど。リハビリするにも足が動か無いんだからさ。」
少し低めで力なく、そして少し掠れた声だ。
「もちろん!運動とはちょっと違うっす!例えば痛みを楽にする呼吸の練習とか、深部静脈血栓症つまりエコノミークラス症候群って聞いた頃はありますか?折れた足をいつまでもじっとさせておくと静脈の中に血栓ができて、最悪肺や心臓、脳に飛ぶこともあるっす。なのでそうなら無いように一緒に練習する。そんな軽いリハビリになりますよ。」
受傷直後の患者様は不安を抱えている。当然のことだ。それを安心させるのも重要なテクニックの一つになる。不安感は痛みをいくらで装飾してしまう。だけどもこの西村さんはどこか諦観のような感情を抱いている。白波はそう感じた。西村は窓の外に視線を戻して口を開く。
「まぁどうでもいいんだけどさ。一つ聞いていい?」
「なんでもどうぞ。」
「あのさ、タバコ吸え無いの?」
ふん。と白波は両手を腰に当てる。だけどもこの方はどこか本気で無いような気もする。不思議とそう感じた。
「もちろんダメっす。」
やっぱりね。と西村はため息をついた。搬送時の記録では受傷は昨夜、現在営んでいる二階のスナックからの帰り道に階段を降りている時に転倒してしまった。通行人が通報し即座に救急搬送されて現在に至る。家族構成は夫とは離婚して高校2年生の娘が一人いる。それが事前に分かっている情報だけども、そういった事は口には決して口には出来ない。
「あたた・・・ねぇ。この痛いのどうにかしてくんない?」
「そうっすね。骨折部の痛みは中々難しいっすけど、ちょっと膝下にクッションを入れてみるっすね。それに両脇にもちょっと入れて肘を置けるようにしておくっす。同じ姿勢は辛いっすからね。」
あたた。と再び顔をしかめながらクッションを入れると西村の表情はどこか和らいだように見えた。
「次に呼吸方法っす。痛みで呼吸がちょっと早いっすよね。そしたら肩周りの筋肉が緊張してさらにしんどくなるっす。そういう時はお腹に手を当ててゆっくりと息を吐いて・・・そうそうゆっくり吸って・・・」
西村は言われるがままに素直に繰り返している。決して悪い人では無いっすね。と白波は胸を撫で下ろす。患者と理学療法士とは名ばかりで、同じ人と人である訳だからやっぱり気になる部分ではある。呼吸を繰り返すうちに西村の表情もまた落ち着いてきた。
「次は足首の運動っすね。エコーで血栓は内容っすから予防が大事っす!痛みが出無い範囲で足首を・・そうそう上下に動かすっす。リハビリでも一緒にモビライゼーションしながらやるっすから痛かったら遠慮なく言ってくださいね。」
ここで足首の運動を見ておく。それは神経が上手く障害されてない事を意味する。今のところではあるが。一通り運動を終えると、西村の額にはうっすらと汗が滲む。たったこれだけでの運動でも負担は受傷後は特に大きい。それでも確かに必要な事ではある。
「こうやって手術まで一緒に痛みのコントロールと合併症予防を行うっす。」
あぁそう。と西村はそう答え、さらに続ける。
「あーあ。もう本当に情けないよね。子供育てるために一生懸命働いてさ。店も切り盛りしながらやってたのにこれでパァさね。家はアパートに二階だから車椅子でも上がれないしさ。実家とは縁切ってるし、本当にそのままぽっくり逝ってしまったらよかったのにねぇ。」
本心ではないけれど、本心に近いところにあるセリフっすね。と白波は思う。
手術をして歩けるようになるという保証はない。だけども若い患者様であるだけで希望は段違いである。
「大丈夫っす!手術の次の日からすぐに立ち上がる練習があるっすから!」
えぇ?と西村は白波の顔を見て目を丸める。そこで初めて白波は西村綾子の表情を見たような気がした。目尻には確かにその人生を歩いてきた筋が刻み込まれていて、その道が容易いものではないことを表している。
「本当にもう大変なことになっちゃったわね。ねぇアンタが担当になるって言ったよね?」
「はいっす!一緒に頑張りましょう!同じ女性同士っすからなんでも気楽にご相談くださいっす。」
西村はふっと笑みを零す。柔らかい曲線を作るその瞼は多くの人を眺めてきたのだろうなと思う。
「まぁ女性というか、まだまだ女の子って感じだけどね。ねぇ痛みを忘れさせてくれるような良い男は居ないの?さっきそこ歩いてたでしょ?緑色のメガネをした・・・」
先輩の事っすね・・・と白波は視線を泳がせる。
「そんなろくなもんじゃないっす!むしろ理屈ばっかりで痛み倍増っすよ!もちろん腕も知識も確かっすけど・・・女心なんて全然分かっていないんすから!」
その説明に西村はあっはっは!と大声で笑い、そして歪んだ足の痛みに、いててと眉を再び顰める。
「申し訳ないっす・・・」
「いいのいいの!でもよおぉく分かったわ。まぁ気晴らしにもなるから、また顔を見せてくださいな。女の子先生。」
そう少し厚い唇と同じくらいに柔らかい瞳で西村はそういった。女の子先生とはなんっすか!と答えつつやっぱり素敵な人っすね。白波もまたホッと胸を撫で下ろすのだった。
それから手術までの間、毎日術前の介入を行いつつ西村との会話は思ったより弾んだ。その日々の中で、白波は西村のいろいろな話を聞いた。
幼い頃から両親と上手くいかずに、高校を出てすぐに働き出した事。そして男と付き合う度に上手くいかず、それでも三十路を過ぎた辺りで出会った昔の旦那と子供を授かった事。しかしそれも娘が中学に入った辺りで上手くいかずに、旦那と別れて今の仕事をしている事。
「娘も思春期でこんな事になっちゃったからさ、さっさと高校の寮に入っちゃって、ほとんど口も聞いてくれないのさね。まぁウチのようにならなければそれで良いんだけど。賢い子なんだよ?ウチと違ってね。」
そう吐き捨てるように答える西村の言葉に白波は何も言える事が出来なかった。ただただしっかりとその言葉を受け止める。
「かといって別れた旦那とも連絡はつけれないしねぇ。死ぬ気で治せなきゃ身寄りが無いただのババアよ。ウチなんか。」
そんな事は無いっすと。白波は立ち上がり仁王立ちとなる。
「大丈夫っす!元々歩けていて若くてしっかりとしているっす。それに先生もまた歩けると説明されてたじゃないっすか!一緒に頑張るっすよ!」
「はっどうだかね。まさか娘みたいな年頃の子にお世話になるとはねぇ。」
と西村は頬を緩めてそう呟く。いつの間にかカーテンには千羽には満たないかもしれないが、沢山の折られた鶴とお店の女の子や常連客らしき男性たちの写真と寄せ書きが飾ってある。それだけでこの人が皆に愛されているのが分かる。娘さんとだってこれから十分にやり直せる。白波は声に出さずにそう表情で伝える。
明日はとうとう手術の日だ。よくある疾患であり、セラピストなら誰しも経験する疾患。その多くは予後も良い。
だけども・・・と白波は思う。
患者様を知れば知るほど、その責任は両肩に多くのしかかる。
だからこそ自分は頑張らなければならない。
それに一人ではないのだから。
白波は一度大きく西村に向かって大きく頷いてみせる。
なによそれ。と西村も笑みを浮かべながら、一度白波に頷いてみせた。
【これまでのあらすじ】
『内科で働くセラピストのお話も随分と進んできました。今まで此処でどんなことを学び、どんな事を感じ、そしてどんなお話を紡いできたのか。本編を更に楽しむためにどうぞ。
【これまでの話 その①】
【これまでの話 その② 〜山吹薫の昔の話編〜】
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